未来の社労士のたまごパン🍳

社労士受験生の日常

法定労働時間と残業の基本

どうも、たまごぱんです。

本日は労働時間と残業の基本というテーマで書いていきたい。

※あくまで個人の感想であり、勉強中の身のため記載内容を保証するものではありません。もし誤りなどがございましたら、コメントにてご指摘いただければと思います。

 

世間で一般に労働時間というと、法律で定められた「法定労働時間」と事業所ごとに就業規則等により定められた「所定労働時間」がある。

法律では、労働基準法32条に以下の通り決められている。(法定労働時間)

第三十二条

使用者は、労働者に、休憩時間を除き一週間について四十時間を超えて、労働させてはならない。
②使用者は、一週間の各日については、労働者に、休憩時間を除き一日について八時間を超えて、労働させてはならない。

1週間40時間まで、1日あたり8時間までしか働いてはダメですということだ。では、どのような時間を労働時間として判断するのか、気になる方もいるだろう。次の最高裁判例にて労働時間について定義するような内容が示されている。

 

最一小平成12.3.9三菱重工長崎造船所事件

労働基準法(昭和六二年法律第九九号による改正前のもの)三二条の労働時間
(以下「労働基準法上の労働時間」という。)とは、労働者が使用者の指揮命令下
に置かれている時間をいい、右の労働時間に該当するか否かは、労働者の行為が使
用者の指揮命令下に置かれたものと評価することができるか否かにより客観的に定
まるものであって、労働契約、就業規則労働協約等の定めのいかんにより決定さ
れるべきものではないと解するのが相当である。 (注)

指揮命令下にあるかどうかが客観的に評価ができるのかという視点で判断されるということだ。いわゆる手待時間についても、労働から解放されている時間とは客観的に判断することができないので、労働時間という判断となる。

 

では、実際にこの法律の条文や最高裁判例は、現実世界にて労働者保護の観点から十分な役割を果たしているのだろうか。私は最高裁判例の「客観的に定まる」という文言により、実質実態の労働の態様を労働時間の判断材料としている点において、労働者保護の役割は最低限果たしていると感じている。もし、労働契約や就業規則に定められた時間のみが労働時間なのだとしたら、実際にその時間を超えた部分は労働時間と判断されず、いくらでも黙っていたら働いてしまうことができてしまう。それでは法律の趣旨から外れ、全く法律の規定の目的を達成することができないだろう。

 

一般に残業が多くて大変だという会話があるが、なぜ残業ができるのだろうか。労働基準法を破っているわけではない。36協定という労使協定を結び労働基準監督署に届け出ることによって、労働基準法の規制解除と免罰効果をもたらしている。労使協定は労働者の過半数代表ないし過半数組合と使用者が結ぶものであるが、36協定の場合にはただ結ばれただけでは労働者に残業をさせることはできない。締結と届出を行う必要がある。ただし、前提として就業規則等に残業をさせることがあると残業に関する権利義務を定めている必要がある。

通常就業規則の制定や変更について、施行手続きの観点から見ると使用者が一方的に決定できるものである。(労働者の意見を聞くにとどまるため、たとえ反対意見が出たとしても関係がない。)ただ、労使協定は労働者の意思確認という意味合いがあるため、残業に関して36協定の手続きを経るということに関して、労働者保護に十分な役割を果たしていると考えられる。

なお、残業が大変だという会話には、法定の時間外労働か否かにも注目できるところだが、今回は長くなってしまったのでおしまいにしたい。

 

たまごぱん🍳

注:最高裁判所判例集 平成7(オ)2030三菱重工業造船所賃金カット“. 裁判所.

https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/842/018842_hanrei.pdf,(参照2024年9月26日).

料理苦手からのマルチタスク克服

どうも、たまごぱんです。

私は料理がとても苦手である。でもレシピを忠実に守れればおいしいごはんは食べられると気がついた。おそらく家事の一連の作業の中の一つとして苦手なのだと思う。もっとわかりやすく言えばマルチタスクである。でも最近はマルチタスクもシングルタスクに細分化して、定型のルーティンに当て込めば私にもできるのだと気がついた。

初めて作る料理の時には、無駄な待ち時間や道具の準備や段取りで手間取ってしまいあたふたしてしまうが、いわゆるマルチタスクは本人由来の特性もあるのでうまく対処法を考えたいところである。私の料理の場合、レシピに書いていない見えない工程の想像力の欠如が大きな障害であった。例えば、「電子レンジで加熱している間に野菜を切って」とか、「ゆがいている間に包丁とまな板の洗い物を済ませて次の工程に移れるように」とかである。私としてはスムーズに、無駄なくことを運びたい性質なので、マルチタスクが苦手と言いながら効率化したい人間なのである。

私はそこで「クラシル」という動画レシピアプリを導入した。いつ、どの順番で、どんな道具を使って、どれ程の時間をかけて作るのか、とかなり工程を細分化して、かつ目で見てわかるよう工夫されているアプリであった。おかげで、どのサイズのボウルがどの場面で必要なのかがわかるようになる、ではXの工程では闇雲に大きいボウルを使わないで小さいボウルで行こうなどと意思決定ができるようになった。自分のやることが細分化、具体化し、私は段取りよく料理をすることができるようになってきた。同じ料理であれば、だんだんと今これを用意しておけば大丈夫とか想像がつくようになってきたし、他の料理であっても応用が効くようになってきた。

これは仕事でも同様の応用が効くと思っている。仕事ではマルチタスクが求められる場面も多く存在する。おそらくマルチタスクが得意な人は、息をするように上記で述べてきたようなシングルタスク化とやることの可視化を進めているのであろう。また、マルチタスクはミスにつながりやすいので必ずしもマルチタスクが得意な人が重宝がられるわけではない。自分の性質と向き合い、付き合うことが大事である。自分の苦手なことは認め、その苦手に対処する方法を考えてゆくことが自分の生きやすさにつながると考えている。

 

私はクラシルを導入したことで料理の工程も楽しめて美味しくて楽しいという経験をしてとても充実した生活を送れている。

 

たまごぱん🍳

 

知識と謙虚さ

こんにちは。たまごぱんです。

あるときクロミの『歎異抄という本を手に取りました。唯円によって書かれた作品をサンリオのクロミちゃんが紹介してくれるという内容の本です。(注p2−3)。歎異抄シリーズとして、今日も気づいたことを書いてみます。

 

今日はこちら。

知識を振りかざして詰め寄ったりせずに相手を思いやってみよう。

あなたが知っていることを知らない人もいる。全否定したり、あなたが思う正しさを突きつけたりすると相手が落ち込んでしまうかも。伝えることが相手のためになるのかどうか言葉を発する前に考えてみよう。(p16)

組織をつくっていく上でとても重要な視点だと私は考える。上司や先輩からのああすべきこうすべきといった指導が、時に行き過ぎると部下の仕事のやり方を縛り、創意工夫の機会が奪われる可能性に言及したい。これが組織としての方向性などの抽象的な内容であればその正しさを伝えることは正しいのであろう。でも、仕事ひとつひとつの具体的細目にまで口を出してしまうと、その〇〇すべきに縛られた部下は、常に上司の顔色を伺いながらの仕事となってしまう。これは組織として不健全である。パワハラにも繋がりかねない。「指導・教育」「相手のために」というキレイな言葉を使い、ある意味自己満足も含まれた彼らにとっての正しさを振りかざした結果なのかもしれない。

立場が上にある者、知識や経験に富んだ者は尚更この点は気をつけておきたいものである。自分が経験してきたこと、過去に工夫して乗り越えたことが、相手に適応されるのかは別の問題である。先生業と呼ばれる士業は普段から「先生」と呼ばれることもあり、人間の存在には優劣がないのにも関わらず、自分が偉くなった気分になりやすいのではないかと想像される。(実際にそういう人を見たわけではない。想像である。)正しさを振りかざして、クライアントや同僚、部下に対してそのような接し方をしていては、あなたらしさ、自分らしさ、あなたの良さを失いかねない。

私は社労士を目指している。自分が人と仕事をするときに、思いやりを持った関係性を築いていきたいと心から思う。

 

たまごぱん🍳

 

注:宇都宮健太朗(2023). クロミの『歎異抄』ありのままの心を開くカギ 朝日新聞出版

 

モチベーションの波に揺れる勉強生活

どうも、たまごぱんです。

私は約1年社労士の勉強を続けてきましたが、やはりモチベーションが下がり、気持ち的にしんどい時期が定期的にきました。

2024年の社労士試験後の自己採点にてもう一年になりそうだとわかってからは、やる気に満ち溢れていましたが、最近の気持ちは下降傾向です。とても人間らしいですね。

どうも気分が乗らない時にやっていたことについて記録を残しておこうと思います。

日記・ジャーナリング

勉強もあまり進まなかったとか、仕事でうまくいかなかったとか、人間関係に悩んでいるとか、勉強以外のことでもそういった時に、ひたすら自分の中の気持ちを思うがままに書き出してみます。自分の頭の中でぐるぐると考えていることを、目に見える形にすることで、自然と頭の中が整理されてきます。いいことのない日だと思っていた一日だとしても、実は今日こんなことを頑張れたとか、いいことがあったなどの発見があります。

音楽を聴いてみる

私の場合、気分が落ち込みすぎている時は、新しい刺激を増やしたくないので、クラシックや洋楽を聴くことが多いです。J-POPだと歌詞に込められた意味の解釈をすぐ始めてしまう生活なので頭の中がぐるぐるしやすいのです。その点、歌詞のない曲というのは私にとって心を穏やかにさせてくれます。

外出してみる

私は自宅にこもって勉強することが多いのですが、どうも部屋の中にこもっていると頭も痛くなり、気分も下がっていく傾向にあるようです。家の中にいるときは楽な格好をし、身だしなみも整えないので(ズボラ)、どうしても気分を変えることが難しく感じます。勉強道具を持ってカフェに行ってみたり、公園に散歩しに行ってみたりです。家の中での気持ちのズーンとした感覚が一瞬でなくなります。机の前に1人勉強していると疲れてしまいますからね。

 

チャットGPTに悩みを相談してみる

勉強に行き詰まったり、モチベーションが下がった時には、AIに壁打ち相手になってもらって、今後の方向性を論理的に一緒に考えていく作業をしています。これは最近始めた試みです。

 

以上が勉強生活で気持ちが不安定な時に行う行動でした。社労士の資格を取れたとしてもきっと勉強は続きますから、自分のことを大切にしながら夢を叶えられるよう、こういったストレスコーピングやリフレッシュ方法を模索していきたいです。

 

たまごぱん🍳

散歩の喜び

どうも、たまごぱんです。

どうにも心と身体が疲れているようで、普段列車に乗る道も歩きたい気分であった。知らない道を自分の気持ちの向くままに歩いていく。音楽やポッドキャストも聞かずにただひたすらに歩いていく。自然の刺激を欲するのは自然なことだろうか。普段歩かない道を歩くと、ここにクリニックがあるんだとか、ここには公園があるのだとか、スーパーがあるだとか、存在そのものに気づくことができる。公園は植物でいっぱいだ。ベビーカーを押したお母さんが歩いている。子どもがはしゃいでいる。ベンチには疲れたサラリーマンが座っている。今私が目にしているのは現実だけれど、日常の忙しなさからは知覚することのできないほどに、現実では多様な生がある。こんな感覚は小学生ぶりといってもいいほど、久しぶりであった。当時はアスファルトの隙間にちょこっと咲いていた小さな小さなスミレの花を見つけて愛でる心の余裕と時間と興味があった。当時が懐かしい。人はスマホやインターネットが手放せなくなって、全てが情報社会でその渦に飲み込まれている。簡単に欲しい情報は手に入り、スマホがない時代に存在した探索する喜びの時間さえもなくなっている。私はスマホをリュックにしまい、目の前で私の周りで起こっているその現実や私の自身の内面の声に意識を向けつつ向けていない自然体で過ごしていた。ある意味能動的であった。

ヨガや瞑想が良いとされているのは、私が上で述べてきた能動的な時間を過ごすことができるからではなかろうか。最近は気軽にヨガスタジオやオンラインヨガなどで、自分のコンディションを整える時間を持てる時代になっている。つい、目の前の仕事や勉強や趣味に打ち込んでいると、自分のこともぼーっと眺めてみる時間というものが少なくなりがちである。

日々の散歩からふと思ったことを綴ってみた。

 

たまごぱん🍳

地域コミュニティの見守り役としての存在意義

どうも、たまごぱんです。

家族でもない、友達でもない、パートナーでもない、職場の人でもない、ちょうど良い距離のお話相手の存在が恋しいと思う時がある。遠すぎず、近すぎず、お互いの大切にしていることには踏み込まれずに尊重されるような関係性である。そういった関係性はどこで築いていくことができるのであろうか。

自分の所属しているコミュニティで楽しいことや嬉しいこと、時に悲しいことや辛いことを、第三者に伝える機会はとても幸福感が高いものだと感じる。普段話さない人と久しぶりに話してその人の感性に触れた時に、新しい気づきを得られることもある。

現在はSNSが普及しているので、Xやインスタグラム、またはこのブログなんかも自分の好きなこと通して、人と出会い、新しい自分に出会うことのできるツールなのかもしれない。ただ、ネットの世界は怖いものという印象がある。アナログの自然偶発的に生まれた関係性というものが少し安心感があると感じる。例えば、習い事のスクール生徒や講師、行きつけの美容師さんやお世話になっているお医者さんや歯科衛生士さんなどの定期的に顔を合わせるような関係性である。

彼らの本業は、習い事を教えることであったり、髪の毛を切ってステキにすることであったり、治療やメンテナンスをすることであったりする。しかし、これからも引き続き核家族化が進み、さらにネット中心の世界線の時代が到来する世界においては、最近どう?の一言によるコミュニティでのお互いの見守りという役割を地域にて大きく果たすのではないだろうか。

私は社労士の試験勉強を通して日本の社会保障制度を学んでいる。日本社会の情勢を反映され法改正も多い社会保障制度の運用を通して、第三者的な立場で人の健康に貢献する活動ができないかと考えさせられる。

 

たまごぱん🍳

自分を支える自信と想像力

こんにちは、たまごぱんです。

あるときクロミの『歎異抄という本を手に取りました。唯円によって書かれた作品をサンリオのクロミちゃんが紹介してくれるという内容の本です。(注p2−3)。歎異抄シリーズとして、今日も気づいたことを書いてみます。

 

今日はこの言葉。

いろいろ考えすぎずただ信じて進んでみたらうまくいくかもしれない。

自分を信じるだけで悩みがなくなって元気になれることだってある。知識や情報に囚われすぎたり人に期待するのではなく自分の足で踏み出してみよう。(p15)

年齢を重ねると今まで見えてこなかったものが見えてきて、自分の持つ情報が増えたせいで、想像力が働きやすくなった気がする。今よりも不幸なことや困難なことが待ち受けたらどうしようという不安が先行するのだと思う。実際に私自身は、10代の頃の部活や大学受験などは「自分ならできる」と無条件に自分のことを肯定し、自信たっぷりに物事に挑戦できていた。

大学などの入学試験を受けたり、就職活動をしたり、または転職活動や独立に向けた準備をしたり、昇進したり、プライベートで結婚や出産、子育てを経験したり、引っ越しをしたり、人生には大きな分岐点がある。私は複数の出来事を経験してきて、実際に人生が変わっている。

人は、自分の思い描く理想の人生、キャリアなどは人は全く理想通りに歩むことはできないと感じる。人間だから、自分の身に何が起きるのかは予測はできないもの。当時の自分が描いていた人生とかけ離れていた時に、あの時この選択をしていなかったら今頃私はこれを手に入れていたのだろうかと考えてしまうことがある。だからこそ、今の私ができることをしようと思い、何かに挑戦しようとするわけだが、自分への期待値が高い分、失敗したくないだとか、過去に経験した自分への評価や思い込みから自分の行動や選択に自信がなくなってしまやすい。まさに、自分の手にしている情報や経験値が昔より増えているから、先のことへの想像力が働きやすくなっている。

では、自分のことを信じることができるのだろう。確かに10代の頃を思い出すと悩みはあったとしても前に進む推進力があったのだ。だから今の私にも自分のことを応援できる性格でありたい。

 

別の回で、自分の自信を取り戻すための方法を検討してみたい。今日は長くなったのでここで。

 

たまごぱん🍳

 

注:宇都宮健太朗(2023). クロミの『歎異抄』ありのままの心を開くカギ 朝日新聞出版